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用戶:N509FZ/OE88

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EF65牽引東方快車'88在日本行駛

東方快車'88ORIENT EXPRESS '88オリエント・エクスプレス '88)是富士電視台為紀念開台30周年而在1988年舉辦的活動,該活動將歐洲始發的東方快車亞歐大陸橋和海路延長至日本,由富士電視台和日立共同主辦[1]東日本旅客鐵道特別協助,JR集團其他成員亦參與協助,活動總經費約30億日元。[2]

ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」 (NIOE) を保有する車両を保有する會社名の表記は文獻によって異なり、「イントラフルック」「イントラフルーク」「イントラフラッグ」「イントラフラグ」とまちまちであるが、本項では「イントラフルーク」という表記で統一する。また、本項では、「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」 (VSOE) を保有するオリエント・エクスプレス・ホテルズを「VSOE社」、「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」を "VSOE" 、「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント・エクスプレス」を "NIOE" と表記する。また、國名は全て當時の名稱で統一する。

活動構想

計劃動機

フジテレビでは、1982年にオリエント急行を題材とした特別番組『夢のオリエント急行 ロンドン - イスタンブール華麗なる3500キロの旅』を製作していた。この番組は、1977年に運行を終了したオリエント急行が、VSOE社によって定期的な運行を再開することを機として製作が決定した[3] もので、VSOE社の保有するVSOEだけではなく、イントラフルークの保有するNIOEも組み合わせた內容であった[4]

この時に製作を擔當した、フジテレビのエグゼクティブプロデューサー沼田篤良は、番組準備としてオリエント急行について調査するうちに、オリエント急行に対する興味をふくらませていったという[3]。かつてオリエント急行の終點だったシルケジ駅トルコイスタンブールに位置し、そこが洋の東西を分ける町とされていたが、沼田が興味を抱いたのは、東洋を意味する「オリエント」と稱しているにもかかわらず、実際にはオリエント急行は東洋には乗り入れていないということであった[5]。そこから沼田が考えたのは「オリエント急行を東洋まで、それも東洋の奧の日本まで走らせよう」というものであった[5]。沼田は、ただ日本に運んできて走らせるだけでは「ヨーロッパを走っている豪華列車」というだけで終わってしまうと考えたのである[6]。ただし、この時點では夢の域を出るものではなかったという[3]

折しも、イントラフルークの社長であるアルベルト・グラットは、パリからモスクワナホトカ行きの列車を走らせたいと考え、その企畫を沼田にも話していた[3] が、沼田が「オリエント急行をそのまま走らせては?」と問いかけると、グラットは「本當はそれをやりたい」と述べたという[3]

実現の可能性の調査

1984年ごろ、沼田はオリエント急行を日本へ走らせることについて真剣に考えるようになった[3]英國放送協會 (BBC) の友人やイギリス鉄道ファンに相談すると「理論的には可能」という答えが返ってきた[7]。しかし、日本ではそうではなかった。製作スタッフやプロダクションにも相談したが、荒唐無稽と受け取られてしまったという[3]。形だけの準備委員會は設置された[8] が、社內でも沼田を変人扱いする者すらいた[8]。また、日本の鉄道評論家や鉄道ファンにも話をしてみたものの、「なぜできないか」ということを丁寧に説明される有様であった[7]

そんな中で、初めて「大変おもしろい」と沼田の相談內容について興味を示した鉄道関係者が、當時日本國有鉄道(國鉄)で運転局長の職にあった山之內秀一郎であった[9]。山之內は、パリの國際鉄道連合 (UIC) の事務局へ1969年から3年間赴任した経験があった[10] 上、帰國後もオリエント急行について調査しており[10]、1982年の特別番組の製作時にも協力していた[10]。山之內は「難しいかもしれませんよ」とは言ったものの[11]、オリエント急行が日本を走れるか検討することを約束し[11]、國鉄內部から専門家を集めて検討を開始した[12][注釈 1]。フジテレビを通じて車両の図面を取り寄せて検討した結果、「主要幹線なら走れそうだ」と見當をつけるまでに至った[13]

一方、沼田も1985年にVSOE社を訪れ、社長のデビット・ベンソンや技術部長のジョン・スキナーとも相談した。社長のベンソンは「技術的な問題が解決すれば、パブリシティと割り切っても構わない」と肯定的で[7]、技術部長のスキナーも「鉄道技術は融通性がある」「最大の課題はシベリア通過と、対応する台車の製作」と述べた[7]。また、時期の問題については、春先はVSOE社にとって繁忙期、オリエント急行の客車には食堂車以外には冷房裝置がないので夏の日本運行は不可能、暖房裝置も真冬のシベリア鉄道通過には耐えられないという事情から、「日本に行くのであれば秋」ということになった[7]

1986年になると、フジテレビ社內の対応にも変化が見られるようになった。當時沼田が所屬する編成局の局長が企畫に理解を示し、1988年のフジテレビ開局30周年の記念事業として検討するように指示を出したのである[9]。最初の構想から時間がかかったことが、結果的にフジテレビの記念事業の時期と重なり、莫大な費用の捻出も可能となったのである[14]。沼田はこれを受けて、VSOE社からソビエト連邦(ソ連)への列車通過について確認を依頼したが、その結果は「オリエント急行のシベリア鉄道通過について、ソ連政府は拒否することはない」というものであった[9]。同年5月にはVSOE社からベンソンが営業擔當者とともに來日し、山之內と具體的な相談をするに至った[13]。しかし、この時期は國鉄の分割民営化が間近になっていた頃で、フジテレビ側でも検討中ということもあり、いったん國鉄側での動きは中斷した[13]

同年10月22日、フジテレビからは沼田とともに編成局長と部長が常務理事に就任していた山之內を訪れ、1988年秋に開局30周年記念事業として行いたいので、具體的な検討を進めるように依頼があった[13]。これを受けて、同年10月30日には國鉄の関係者を集めて、翌1987年1月までに検討結果をまとめた[13]。その結果は「技術的にはオリエント急行は日本を走れそうだ」というものであった[13]。また、この段階で、國鉄が分割民営化されたあとはJR東日本が中心となって計畫を進めることと決めていた[2]。山之內は「ヨーロッパに行って実際に車両を見ないと細かいことが分からない」と考えていた[13] が、この時期は分割民営化の準備のためそのような餘裕はなく、國鉄側での動きは再度中斷することになった[13]

具體的検討へ

當初日本に來る予定だったVSOEの車両

國鉄分割民営化から間もない1987年4月16日、フジテレビの幹部がJR東日本の副社長となっていた山之內を訪れ、オリエント急行の日本運行についての計畫は予定通りに進めるように依頼があった[13]。折りしも、民営化直後のJR東日本では、「國鉄時代にできなかったことをやってみたい」と考えていた[13]。これを機に再度計畫が進められることになり、VSOE社からの車両の借り入れや、オリエント急行が通過する各國の運行についてはフジテレビが責任を持ち、JRグループでは日本國內での運行と乗客募集・販売を擔當することになった[2]。フジテレビ側ではスポンサー獲得のための営業説明が社內で行われるようになっていた[9]

同年10月にはオリエント急行の運行について、JRグループ6社が集まって會議が行われた[2]。オリエント急行が日本に來るのは10月上旬で、日本からヨーロッパに返卻されるのは12月下旬となるため、車両の改造についてはできるだけ短期間で行い、一日でも多く日本國內での運行ができるように検討が重ねられた[2]。また、運行計畫についても、國鉄時代の検討では4往復程度の運行で考えていたが、日本一周以外にも金沢広島京都などの観光都市へ何度も往復する「シャトル列車」を運行することになった[2]。その後も運行計畫や沿線警備、さらに販売と宣伝について検討が重ねられた[2]。なお、この時點で技術的な課題についても検討や調整が行われていたが、まとめて後述する。

紆余曲折の末の契約

ところが、この時期にVSOE社の社長が交代することになった[9]。ベンソンがヘッドハンティングにより航空會社の社長に就任することになったためである[9]。技術部長のスキナーは「フジテレビには迷惑をかけない」と言った[15] ものの、実際に契約する段になり、VSOE社の會長であるシャーウッドは、車両保護の観點から「船で運べば安全で確実ではないか」と主張した[15]。また、提示された車両のリース料も非常に高額となった[2]。1987年の年末にシャーウッドが來日した際に、再度フジテレビから交渉したが、結局「VSOE社の提案する內容ではこの企畫は実行できない」という結論となった[15]

やむを得ず、沼田はイントラフルークとの交渉に切り替え、イントラフルークのグラット社長に相談した[15]。グラットは沼田に対して「なぜ真っ先に相談してくれなかったのか」と怒ったという[15]。グラットの対応は早く、1988年1月には正式にオリエント急行の日本運行の実施が決定[2]、同年3月にはフジテレビとイントラフルークの間で正式に契約が結ばれた[9]

運行準備工作

こうして、オリエント急行を日本で走らせるための契約は成立した。しかし、短期間の間に各國の通過交渉や技術的課題の解決、さらに放送計畫やイベントの計畫、スポンサーや代理店に対する説明などを行わなければならなかった[15]。特に、収支予測については前例がないことで、沼田をはじめとするフジテレビ関係者を悩ませた[15]

與途經國家的談判

前述のとおり、通過各國との交渉はフジテレビが擔當した。ただし、フランスからポーランドまではイントラフルークが交渉を擔當した[16]

當時的原計劃是將車輛從上海船運至日本[17],但1988年3月24日發生的滬杭外環線列車相撞事故影響了富士電視台與中方的談判[18],運行計劃遂改為從香港船運至日本。[19]然而港方最初並不抱信任態度,認為「這樣的列車不會過來」[20],給談判造成了極大的困難[18]。また、フランス國鉄 (SNCF) の交渉も、最初の頃は「そんな列車を本気で走らせようとする人間がいるとは思えない」と取り合ってもらえなかったという[18]

一方、最も困難な交渉が予想されていたソ連は、ゴルバチョフ書記長の政権下でペレストロイカと稱する改革方針を打ち出した直後であったため[16]、比較的簡単に了解を得られた[16] のみならず、グラスノスチ政策によって列車の空撮まで認められた[16]ドイツ民主共和國(東ドイツ)やポーランドの対応も好意的であったという[17]

技術的課題の解決

ヨーロッパ內であれば、古い車両を國境を越えて運転する機會は多く、技術的・法的な問題はほとんどなかった[21]。一方日本國外の車両を日本で運行するには、確認申請を運輸省(當時)に提出し、許可を受ける必要がある[2]。しかし、島國である日本の法律は、そもそも國外から列車が走ってくることを想定していなかった[22] ため、JR東日本では運輸省の許可を得るために1年以上も話し合いや指導を受けた[22]。またイントラフルークでは車両の図面も満足に整備されておらず、JR東日本の技術者を困惑させた[23] が、イントラフルークのルネ・ブーベンドルフ技術部長によれば、製造から60年近くたち、その間に戦爭もあったため仕方のないことであるという[21]。JR東日本では同年5月から6月にかけて、スイスへ現地調査団を送り、実際に車両の調査を開始した[2]

車両の規格
オリエント急行の客車は、車體の幅については幅2.9mでJRの車両よりも狹かった[24] が、長さは23.5mと長い[24] ため、日本での走行については曲線の通過時に車両限界を牴觸する可能性がある[25][注釈 2]。このため、建築限界測定用の車両を運行を予定している區間に走行させて確認した[26]。その結果、支障箇所は約800箇所にも上り[20]、そのうち約300箇所については線路の移設を行うことで対応させることになった[20]。また、ヨーロッパではホーム高さが低いために出入台には昇降用のステップが設けられているが、日本國內では取り外すことになった[27] ほか、各種裝備品についても移設や交換を行うことになった[25] が、荷物車の監視用の窓の小さなドームについては、オリエント急行のデザインに役立っていると考えられた[28] ことから、日本の規格に収まる大きさの監視窓を製作して取り付けることになった[26]
軌間
ヨーロッパと中國では、軌間(レールとレールの間の幅)は國際的な標準軌間である1,435mmである[25] のに対し[25]、日本の國內では狹軌の1,067mmであり[25]、途中通過するソ連では逆に1,524mmの広軌である[25]。これに対して、ソ連を通過するために必要な広軌用の台車は30個を準備することになり[15]、日本國內では舊型客車に使用していたTR47形台車を改造して22個用意した[25]。日本での台車の準備はJR東日本大宮工場が擔當し[25]、台車の交換は協賛企業の日立製作所が擔當することになった[25]。なお、オリエント急行の客車は日本の客車よりも1両あたり約10t重いため[1]、台車の軸ばねと枕ばねを交換し[29]、強度試験が行われた[1]
連結器
オリエント急行の連結器はヨーロッパでの標準であるねじ式連結器である[25] が、ソ連・中國・日本では自動連結器が使用されている[25] ため、その國での客車の片側をねじ式連結器に変更した車両を用意し[25]控車として機関車との間に連結することにした[26]。日本國內の控車については巻末の車両一覧を參照。
防火対策
日本の普通鉄道構造規則では、當時は內裝に木材を使用することは火災対策上認めておらず[30]、暖房や調理用に石炭を焚くことも禁止されていた[30]。しかし、オリエント急行は內裝に木材を多用している[2] ばかりでなく、食堂車では石炭レンジが使用され[2]、各車両の暖房は小型の石炭焚きボイラーを使用していた[2]。これでは日本の防火基準には全く合わない[2]。これに対して、各車両に放送裝置と火災報知器を設置し[30]、防火専任の保安要員を乗務させるという條件で特認を受けることになった[30]
照明用電源
オリエント急行では、各車両の台車に車軸発電機を設けることで照明用の電源を確保していたが、台車を交換することによって発電機の位置が合わず使用できなくなる[29]。このため、荷物車両にディーゼルエンジン駆動の発電機を搭載し、各車両へ供給することになった[29]。プルマン車とバー車は直流24V[31]、食堂車は直流48V[31]、寢台車は直流72V[31] と、使用電圧はまちまちであり、荷物車からは380V三相交流を供給し、各車両に整流器を設置した[32]
ブレーキ
列車の運行において最も重要であるブレーキについては、通過する各國とも自動空気ブレーキで統一されており[30]、しかもブレーキ圧力も全ての國で揃っていた[30]。このため、ブレーキに関しては空気指令の読み替えなどを行う必要は全くなく[17]、ブレーキ管の接続部分の種類と位置を合わせるだけで対応できることになった[30]
その他
シベリアを橫斷するという長距離運行に対応させるべく、荷物車については冷凍冷蔵庫の増強と廚房用水タンクの容量増大が施工された[30]

車両の改造を擔當する日立製作所では、JR東日本とともに設計検討を行ったが、図面だけでは分からない部分が多かった。このため、検証のために笠戸事業所へ車両1両[注釈 3]を先に送ってもらい[1]、イントラフルークとJR東日本の立會いの下で、1988年8月4日から実際の車両を使用して作業項目の把握と技術的な見通しの検証を行った[1]

一方、ソ連を通過するために必要な広軌用の台車については製作が間に合わず[15]、當初は9月2日に予定していたパリの出発日を9月7日に変更せざるを得なくなった[15]。ソ連用広軌台車はオリエント・エクスプレス'88での使用後もイントラフルーク社で保管されていた[33]

運行狀況

巴黎-香港段

東方快車'88在巴黎-香港段的運行路線圖

1988年9月5日,NIOEの車両は本拠地のスイス・チューリッヒを出発し、パリまで回送された[34]。9月6日にはパリで乗客と関係者を招待して出発記念パーティーが行われた[35]

9月7日、フランスのパリ・リヨン駅の発車案內には「オリエント急行東京行き」と表示され[36]、構內アナウンスもオリエント急行の東京行きと告げていた[37]。そして、オリエント急行の先頭には、映畫『オリエント急行殺人事件』にも登場した230G形蒸気機関車が連結されていた[30]。この蒸気機関車は博物館に保存されていた[38] が、この列車のためにフランス國鉄が用意したのである[36]

山之內は、現地でのテレビ局のインタビューに対して、フランス國鉄が蒸気機関車を牽引機として用意したことについて「粋な計らい」と評した上で、「日本でも蒸気機関車がこの列車を引くでしょう」と発言した[39]。日本でテレビ中継を視聴していたJR東日本の社員は、副社長である山之內のこの発言に驚いた[39]。當時、JR東日本ではD51形蒸気機関車の復元作業に着手していたが、當初の目的であった橫浜博覧會での運行が取りやめとなり、作業の進捗は遅くなっていたのである[39]。JR東日本では急遽會議を行い、「日本でのオリエント急行の運行の最終期にD51形に牽引させる」という方向性が決まり[40]、突貫作業でD51形の復元作業が進められることになった[40]

ともあれ、東京行きのオリエント急行は、パリ・リヨン駅を予定より5分遅れの9時40分に発車した[30]。パリから香港までは約14,600kmあり[37]、無事に到着した場合は「ひとつの列車が乗り継ぎなしで走った最長距離」としてギネスブックにも掲載されることになっていた[37]

パリから香港・東京までの乗客は、阪急交通社主催のツアーとして募集された[41]。參加したのは37名[42](資料により36名[35][36] あるいは39名[43])で[注釈 4]、その中には作家の安部譲二が含まれる[44]。このほかフジテレビの撮影班[45] と、リポーターとして上月晃が同乗した[46]

蒸気機関車による牽引はモーまでであった[38]ベルギー西ドイツは夜間に通過し、東西ドイツの國境であるマリエンボルンからはドイツ國営鉄道 (DR) の保有する01形蒸気機関車が重連でオリエント急行を牽引した[30]。途中、乗客の観光のためポツダムでは6時間停車したほか、東ベルリンリヒテンベルクではこの列車の乗客を招待した晩餐會が開かれた[30]。東ベルリンを9月8日の深夜に発車したオリエント急行はポーランドに入國したが、ポーランドのクトノからはポーランド國鉄のPt47形・Ty51形蒸気機関車が重連でオリエント急行を牽引した[30]。東ドイツ・ポーランドとも、日中の運転區間がほとんど蒸気機関車による牽引であった[30]。なお、乗客はソハチェフからワルシャワまではバスに乗り換えて、フレデリック・ショパンの生家を訪れている[47]

9月10日にワルシャワを出発したオリエント急行はソ連に入國し、ブレストで台車の交換作業を行い[48]、同時に前3両、後1両の控車が連結された[48]。4時間停車の予定であったが、作業が遅れたために1時間遅れでブレストを発車することになり、ここからモスクワまではソ連國鉄のP36形蒸気機関車がオリエント急行を牽引した[48]。ここからはソ連人のシェフが乗り込み、食堂車でロシア料理を提供した[49]。途中、モスクワで1日半、ノボシビルスクで半日、イルクーツクで2日ほどの停車時間が確保されていたが、これは乗客の観光や車両のメンテナンスを行うだけではなく、ブレストで交換した標準軌用の台車をオリエント急行よりも先に中國との國境に近いザバイカリスクに輸送しなければならないための時間稼ぎでもあった[48]。標準軌用の台車は貨車で輸送され[50]、途中でオリエント急行を追い抜いている[48]

在外貝加爾斯克更換准軌轉向架後,東方快車於9月20日由北京型柴油機車(口岸型)牽引至滿洲里,進入中國境內,並換掛中方迴轉車(機後2輛18型客車、列尾1輛)[48]。餐車在進入中國境內後也開始供應中國菜[48]。列車在安達哈爾濱間由前進型蒸汽機車牽引,在哈爾濱站換掛東方紅3型柴油機車[48]。9月22日,東方快車沿19/20次列車的徑路抵達北京站,然後在北京停車兩天,9月24日再從北京站開出,經京廣鐵路廣深鐵路九廣鐵路英段運行(1997年開通的京九直通車在長陽線路所以南沿用了這一徑路,最後於9月26日下午2時45分抵達香港九龍車站,至此,這組「東方快車」車底已連續運行15494公里[48]

オリエント急行の客車は9月27日から28日にかけて[51]パナマ船籍の貨物船「せき・まつやま號」に積み込まれ[52]、9月29日に日本へ出港した[51]。 <--

日本での整備

日立製作所笠戸事業所では、オリエント急行の改造作業に向けて準備が進められた。

短期間に10數両の改造を行うための広い場所が必要であった[1] が、生産ライン上には場所が確保できなかったため、やむを得ず別の場所に軌道の仮設やリフティングジャッキの整備などが行われた[1]。また、オリエント急行の客車は重要文化財に相當する物件であると考えられた[53] ため、綜合警備保障ガードマンを24時間體制で配置し[53]、作業者や立入者は特定の腕章ヘルメットを着用することを義務付け[53]、夜間照明の増設や鉄條網の新設を行う[53] など、作業場所の警備対策を強化した。これらの準備が全て完了し、イントラフルークからも作業內容の承認を得られたのは、1988年10月4日であった[53]

オリエント急行の客車を載せた貨物船「せき・まつやま號」が日本の徳山下松港に入港したのは同年10月6日早朝で、台風の影響で1日遅れの到着であった[53]。客車はによって陸揚げと工場內への搬入が開始された[53]

陸揚げされた車両はすぐに改造工事が実施されたが、同じ車両でも1両ごとに細部が異なっており、図面も揃っていなかった[53] ため、実際の車両をチェックしながら行われた[53]。客室に木材が多用されているだけでなく、調度品も大部分が可燃物であったため、火気取扱いには特に注意が必要であった[53]。また、食堂車については事前情報よりも重量が重く、日本走行用の台車に車體を載せたところ、枕ばねが密着狀態になってしまった[53]。これではばねの役目を果たせない。やむを得ず、運行時期を考えれば不要と考えられる冷房裝置を撤去することで対処した[48]

日本國內での運行にあたり、オリエント急行はJR東日本の品川運転所所屬となった[54]。各車両の連結面には、日本で運行するために必要な表記が日本語で表記された[55]。イントラフルークのグラット社長は、この日本語表記については「日本に來た証として、ヨーロッパに戻った後もそのままにする」と表明した[56]

同年10月14日には全ての改造が完了し[57] 工場內で編成単位では初の試運転が行われた[58]。10月15日には報道陣や市民に公開され[53]、10月16日には山陽本線下松駅から新下関駅まで本線上での試運転が行われた後、広島駅回送された[48][58]。客車の前後には、控車として客車が1両ずつ連結された。

日本國內運行

広島から東京までの運行ルート

1988年10月17日午後6時15分、オリエント急行はEF65形電気機関車に牽引され[59]、広島駅7番ホームに入線した[60]。パリからの乗客17名[61] に加え、フジテレビから招待された広島からの乗客(報道陣とJRグループ、フジテレビ、日立製作所などの関係者約60名[61])がこの列車に乗り込んだが、出発當日はドレスコードにより「ブラックタイ着用」が指定されていた[62]。午後6時36分、オリエント急行は広島駅を定刻に発車した[62]。これが、オリエント急行にとっては初めての日本での営業運行であった[62]。翌日の10月18日午前10時30分、パリから約15,494 km[63][注釈 5]を走り、オリエント急行は定刻通りに東京駅9番ホームに到着した[56]。東京駅到着後には、地下コンコースにおいて「世界最長距離列車」としてギネスブックへの認定式が行われた[63]。またパリからの全區間を乗車した乗客17人に記念証が贈られた[64]

10月19日には、招待客を乗せて東京駅から山手貨物線経由で大宮駅まで試乗會が行われた[56]

オリエント急行を利用した日本國內ツアーはJR東日本または西日本旅客鉄道(JR西日本)・九州旅客鉄道(JR九州)が主催し、合計70コースが設定された[24]。10月24日からの日本一周ツアーは、9泊10日(うち車中4泊)で1人88萬8千円という高額旅行商品であった[65] が、ツアー定員74名に対して約13倍の951名の申し込みがあり[66]、抽選となるほどの人気であった[24]。このほかの69コースは2泊3日で片道のみオリエント急行に乗車するもので、東京・上野から函館や金沢、長崎、京都、神戸など、大阪から東京、橫浜など、博多から熱海、鎌倉などへ往復した。定員は各々40名から80名で、費用は1人16萬2千円から26萬8千円と、國內旅行としては異例の高額であった[67] が、平均で定員の5.2倍の申し込みがあり[66]、すぐに満員となった[24]。中高年の夫妻に人気があったという[68]。最も高倍率となったのは、上野から函館を片道は寢台特急北斗星」利用で往復するコース(「ロマンチック函館」、16萬7千円[69])で、23倍に達した[66]。ツアーの総定員は約2900名で[70]、総売上は約6億7千萬円となった[67]

日本一周ツアーでは、青函トンネルを通過して北海道札幌駅まで走行した[24] ほか、関門トンネルを抜けて九州熊本駅まで[24]、また瀬戸大橋を渡って四國高松駅まで乗り入れた[24]。各ツアーで乗客が観光のため下車している間には、駅でオリエント急行の客車の一般公開も行われた[24]

日本國內運行でのオリエント急行は、ダイヤ設定上は急行列車として扱われた[71] が、これは日本國內で使用する台車では最高速度が95km/hに限られたためである[71]。また、オリエント急行の車內サービスでは大量の水を消費するため、擔當するイントラフルーク側からは運行途中での給水を要求されていた[72] が、日本の鉄道では途中駅での給水は一般的ではなくなっていたため、給水設備のある駅での停車時間確保に苦労したという[30]。客車の改造內容のうち、廚房用水タンクの容量増大が施工されたのはこうした理由もある[72]。また、日本國內の運行においてはホーム有効長の関係から前後の控車を含めて13両編成とした[31] ものの、編成重量は650t近くになる[73][注釈 6]ため、勾配の急な區間では機関車を重連運用にして対応した[73][注釈 7]

日本國內走行時は、NIOE固有の乗員は、列車長、技術者、清掃擔當、各寢台車の乗客掛などイントラフルーク社所屬の15名と、食堂やバーを擔當するワゴン・リ社の11名[注釈 8]の計26名である。ただし後半のシャトル走行時には23名程度となった。このほかJR各社からは通常の運転士車掌に加え、火災対策のための保安要員1名、通訳1名、ツアー添乗員2名が乗り込んだ。列車運行の最終的な責任者はJRの車掌であるが、車內放送は緊急時を除き行わないことになっていた[79]

日本での運行中には小さなトラブルも続出した[80]。部品の劣化によりブレーキが緩まなくなったり[81]、乗客がトイレの便器にペーパータオルを投げ込んだために詰まりが生じたり[80] する事象が発生した。また、車両基地での給水では水圧が強すぎて反対側の給水口から水が漏れてしまい、不完全な給水になってしまったりすることもあった[82]。しかし、こうしたトラブルも、運行終了の頃には収まるようになっていた[80]

12月19日20時55分頃には、新潟県內の上越線上で、2両目と3両目の間の連結器が外れる事故が発生した[83]。列車は5時間後に運転を再開し、目的地の京都には約35分遅れで到着した[84]

thumb|最後のツアーでオリエント急行を牽引したD51形498號機 足掛け3ヶ月にわたったオリエント急行の日本國內運行の最後のツアーとなったのは、上野駅から京都駅へ往復するツアーであった[85] が、このツアーの出発日である12月23日、上野駅を発車するオリエント急行の先頭には、この日が初の営業運行となるD51形蒸気機関車498號機が連結されていた[85]。この蒸気機関車は、パリで山之內が「日本でも蒸気機関車がこの列車を引く」と発言して以來、突貫作業で復元工事が行われ[40]、11月22日には復元作業の完成式が行われていた[86]。D51形はオリエント急行を大宮駅まで牽引した[85]。また、上野駅から水上駅まで[注釈 9]と、翌々日の水上駅から上野駅までは、「お召し列車」専用の電気機関車であるEF58形電気機関車61號機がオリエント急行を牽引した[87]。この列車は同年12月25日午前10時45分に上野駅に到着し[87]、オリエント急行の日本國內の営業運行は全て終了した[18]

ヨーロッパへ返卻

運行終了後、オリエント急行の客車は回送され、12月27日に下松駅に到着した[88]。直ちに復元作業が行われ、翌1989年1月6日には通関手続きも完了し、1月7日から9日にかけて貨物船「プロジクト・アメリカ號」に積み込まれた[88]。同年1月9日午後5時50分、沼田をはじめとして、オリエント急行の日本國內運行に攜わった関係者が見送る中[88]、「プロジクト・アメリカ號」は西ドイツのハンブルク港へ向けて出港した[88]

終了後

フジテレビでは1989年に新年のスローガンが発表されたが、その內容は「しろうとのくろうと 時代を作るフジテレビ」であった[89]。これは、フジテレビの社長が関西テレビ放送の社長とゴルフをした際に「オリエント急行を日本で走らせるという発想は鉄道の専門家からは出てこない」という指摘を受けたことによるものであった[89][注釈 10]

その後、イントラフルークの経営難のため、車両は他社に売卻された。日本を走った車両のうち、プルマン車No.4158DEは2004年以降は日本の箱根ラリック美術館にて公開されている[90]

模型化

2012年にKATOによりNゲージサイズで日本での運行時の13両編成が、2014年にはパリ~香港間を走破した大陸走破時の15両編成が、同年箱根ラリック美術館展示のプルマン車No.4158DEも単品で相次いでモデル化されている。

データ

巴黎→東京運行徑路

圖例
●…停車6小時以上、◎…停車24小時以上、★…轉向架更換

巴黎[38]莫城[38]蘭斯[91]科隆[48]→馬利恩博恩[92]→●波茨坦[48]→●利希滕貝格(東柏林)日語リヒテンベルク区[48]→庫特娜[93]索哈契夫[48]→●華沙[94]泰雷斯波爾日語テレスポル駅[48]→★布列斯特[95]→◎莫斯科[95]→基洛夫[48]→彼爾姆[48]斯維爾德洛夫斯克[48]→鄂木斯克[48]→●新西伯利亞[96]克拉斯諾亞爾斯克[48]→◎伊爾庫茨克[48]→●赤塔[48]→★外貝加爾斯克日語ザバイカリスク駅[97]滿洲里[98]安達[48]哈爾濱[48]→◎北京[99]廣州[48]深圳[48]香港(九龍)[48]→(船運)→★下松[48]→(回送)→廣島[60]東京[56]

なお、書籍やインターネット上の「モンゴルを経由した」「フランクフルト中央駅を経由した」という情報は誤りである[48]

列車編組

パリ発車時點では客車15両に郵便車を増結していた[31] が、日本運行ではホーム有効長の関係から客車は11両とし、前後に控車を連結した13両の編成とした[31]。下記の車両のほか、日立製作所笠戸事業所で作業の検証のために寢台車(Lx形 3540號車[33])が1両日本に運び込まれた[1]

日本國內を走行した客車は以下の通り。順序は広島 - 東京間走行時の東京方からの連結順である[100]。諸元は日本國內走行用に改造後のものである。

車輛編號[31] 形式[31] 車輛種類[31] 定員[31] 車輛自重[31] 滿載重量[31] 製造年分[31] 備註
オニ23 1 オニ23 控車         廃車後に國鉄清算事業団の所有となっていたナハネフ23形寢台車を改造した。ナハネフ23は內裝をすべて撤去した上で、「オニ23形」という新形式車両として使用された。當時日立製作所が開発していたハイビジョン裝置を備えた上映室に改裝し、車內でオリエント急行の映像を上映する「日立パビリオンカー」として使用[53]。列車の運行終了後は用途を失い、廃車となっている。
3909 WLA YU 宿營車 26名 51t 53t 1949年 列車員專用臥鋪車[注釈 11]
1286 D 行李車   40t 45t 1928年 冷蔵室、調理準備室、皿洗い室、予備部品倉庫、工作室を設置[101]。日本國內運行ではキューボラを交換し、発電機を搭載[29][101]
3354 WR 餐車 30名 55t 57t 1927年 フランス大統領専用車「プレジデンシャル」[102]。日本運行では冷房裝置を撤去[53]
4158 WSP 普爾曼車 28名 51t 53t 1929年 食堂車として使用[103]。食事は3354號車から提供[102]。。
4164 ARP 音樂酒吧車 28名 51t 53t 1929年  
3551 WLA LX20 臥鋪車 20名 51t 53t 1929年 雙人包廂×10
3542 WLA LX16 臥鋪車 16名 51t 53t 1929年 單人包廂×4 + 雙人包廂×6
3480 WLA LX16 臥鋪車 16名 51t 53t 1929年 單人包廂×4 + 雙人包廂×6
3472 WLA LX16 臥鋪車 16名 51t 53t 1929年 單人包廂×4 + 雙人包廂×6
3537 WLA LX16 臥鋪車 16名 51t 53t 1929年 單人包廂×4 + 雙人包廂×6
3487 WLA LX16 臥鋪車 16名 51t 53t 1929年 單人包廂×4 + 雙人包廂×6
マニ50 2236 マニ50 控車       1981年 郵便・荷物輸送列車の廃止によって余剰となっていたマニ50形荷物車を、元來の車體色である青15號に加え、幕板部分のロゴと側面窓下に金色のストライプが施された。ワゴン・リの客車と連結する車端部の連結幌と連結器は、イントラフルーク社から提供を受けた部品を使用していた。リネン用倉庫として使用。列車の運行終了後は用途を失い、廃車となっている。

またパリ発車時に連結されていたが、日本國內では運行されなかった客車は以下である[31]

車両番號[31] 形式[31] 車両の種類[31] 製造年 備考
    郵便車   テレビスタッフ用[31]
4149 WSP[104] プルマン車 1929年[105] 食堂車として使用。食事は3354號車から提供[102]
3475 WLA Lx[105] 寢台車 1929年[105]  
4013   シャワー車 1926年
(1967年改造)[106]
 
3851 WLA Yb[106] スタッフ車 1941年[106]  

なおイントラフルーク社は舊ミトローパの「ラインゴルト」用サロン車(No. 24507)も保有していたが、ソ連通過用の台車が作れなかったためオリエント・エクスプレス'88には加わっていない[107]

車両公開

日本國內では、以下の各地で車両の一般公開が行われた。

日時 場所
1988年10月15日 日立製作所笠戸事業所[58]
10月21日 - 23日 品川駅[108]
10月25日 13:00 - 20:00 白石駅[108]
10月26日 9:00 - 12:00 白石駅[108]
10月27日 9:00 - 12:00 五稜郭駅[108]
10月29日 11:00 - 14:30 京都駅[108]
10月30日 13:30 - 15:45 熊本駅[108]
11月1日 14:20 - 16:30 高松駅[109]
11月3日 10:30 - 16:00 仙台駅[109]
11月5日 14:15 - 16:15 大阪駅[109]
11月6日 10:00 - 16:15 大阪駅[109]
11月7日 11:00 - 15:00 広島駅[109]
11月8日 10:15 - 16:30 箱崎駅[109]
11月9日 10:30 - 17:30 門司駅[109]
11月10日 7:00 - 19:00 新倉敷駅[109]
11月11日 10:30 - 15:30 靜岡駅[109]
11月12日 9:00 - 20:00 熱田駅[109]
11月15日 12:00 - 16:00 青森駅[109]
11月17日 13:40 - 16:00 秋田駅[110]
11月19日 10:00 - 14:30 大阪駅[110]
11月21日 12:30 - 16:00 金沢駅[110]
11月23日 10:00 - 14:30 大阪駅[111]
11月29日 14:15 - 16:15 博多駅[111]
12月1日 13:00 - 15:00 広島駅[111]
12月3日 14:15 - 16:15 博多駅[112]

また、日本國內運行に加わらなかったプルマン車、寢台車、シャワー車の3両が11月3日から12月4日まで汐留駅跡地で展示された[113]

テレビ放送

放送日時は東京のフジテレビジョンのもの。

放送日時 タイトル
9月7日 16:00-16:55 オリエント急行 パリ・リヨン駅出発衛星生中継[114]
9月15日 15:00 - 16:30 オリエント急行との出會いから出発・ノボシビルスク到着まで[115]
10月19日 19:30 - 20:54 オリエント急行'88 史上初! 華麗なる冒険の旅・愛と感動の1萬8千キロ[116]
11月16日 1:00 - 2:00
(11月15日深夜)
オリエントエクスプレス'88スペシャル[117]
12月19日 1:00 - 1:55
(12月18日深夜)
パリ発東京行きオリエント急行裏話[118]
12月25日 16:05 - 17:30 オリエントエクスプレス'88 さよなら!オリエント急行[119]

イメージソング

松田聖子旅立ちはフリージア
作詞…Seiko/作曲…タケカワユキヒデ

腳註

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注釈

  1. ^ 山之內は、オリエント急行の日本走行について「不可能とは思わなかった」と述べている[10]
  2. ^ ソ連や中國の通過においては問題は生じなかった[25]
  3. ^ イントラフルーク社が保有していたレストア途上だった廃車同様の寢台車を使用した[1]
  4. ^ 乗客の內訳は、フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』によれば日本人23名、アメリカ人6名、フランス人5名、香港人2名、イギリス人1名[42]。安部譲二『大列車旅行』によれば日本人21名、アメリカ人7名、フランス人5名、中國系カナダ人2名、イギリス人1名[35]
  5. ^ 航送距離も含めると約17,997km[37]
  6. ^ 13両編成での積車換算両數は63.5にも及ぶ[74]。參考までに、寢台特急「カシオペア」はE26系客車12両で500t[75]、積車換算両數は50である[75]
  7. ^ 例えば、山陽本線の瀬野駅から八本松駅までの上り勾配(瀬野八)には、EF65形電気機関車1000番台(PF形)の重連[73]、青函トンネル區間ではED79形電気機関車の重連[76]、上越線の水上駅と長岡駅の間ではEF64形電気機関車1000番台の重連で対応した[77]
  8. ^ 松本謙一の同乗ルポによれば、イントラフルークが14名、ワゴン・リが12名[78]
  9. ^ 上野駅から大宮駅まではD51形498號機の次位に連結されていた[85]
  10. ^ 當時の関西テレビの社長は阪急電鉄出身であった[89]
  11. ^ 內裝が新しく「オリエント急行にはふさわしくない」とされたため、スタッフ専用車両として使用[29]

出典

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  2. ^ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 鉄道ジャーナル 通巻268號 山之內秀一郎『オリエント急行の國內運転実現まで』 p.142
  3. ^ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 鉄道ジャーナル 通巻268號 沼田篤良『」夢の企畫」の舞台裏で』 p.144
  4. ^ 鉄道ジャーナル 通巻268號 山之內秀一郎『オリエント急行の國內運転実現まで』 p.140
  5. ^ 5.0 5.1 鉄道ファン 通巻335號 沼田篤良『」オリエント急行」のプロジェクトを完遂して』 p.75
  6. ^ フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.122
  7. ^ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 鉄道ジャーナル 通巻268號 沼田篤良『」夢の企畫」の舞台裏で』 p.145
  8. ^ 8.0 8.1 フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.124
  9. ^ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 鉄道ジャーナル 通巻268號 沼田篤良『」夢の企畫」の舞台裏で』 p.146
  10. ^ 10.0 10.1 10.2 10.3 フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.125
  11. ^ 11.0 11.1 鉄道ジャーナル 通巻268號 山之內秀一郎『オリエント急行の國內運転実現まで』 p.138
  12. ^ 鉄道ジャーナル 通巻268號 山之內秀一郎『オリエント急行の國內運転実現まで』 pp.140-141
  13. ^ 13.00 13.01 13.02 13.03 13.04 13.05 13.06 13.07 13.08 13.09 鉄道ジャーナル 通巻268號 山之內秀一郎『オリエント急行の國內運転実現まで』 p.141
  14. ^ フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.137
  15. ^ 15.00 15.01 15.02 15.03 15.04 15.05 15.06 15.07 15.08 15.09 鉄道ジャーナル 通巻268號 沼田篤良『」夢の企畫」の舞台裏で』 p.147
  16. ^ 16.0 16.1 16.2 16.3 フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.128
  17. ^ 17.0 17.1 17.2 鉄道ジャーナル 通巻505號 『オリエント急行來日のはなし』 p.107
  18. ^ 18.0 18.1 18.2 18.3 鉄道ファン 通巻335號 沼田篤良『」オリエント急行」のプロジェクトを完遂して』 p.76
  19. ^ 鉄道ファン 通巻335號 沼田篤良『」オリエント急行」のプロジェクトを完遂して』 pp.76-77
  20. ^ 20.0 20.1 20.2 鉄道ジャーナル 通巻268號 山之內秀一郎『オリエント急行の國內運転実現まで』 p.143
  21. ^ 21.0 21.1 とれいん 通巻168號 松本謙一『フジテレビジョン開局30周年記念特別企畫 オリエント・エクスプレス'88同乗ルポ ルネ・ブーベンドルフの挑戦』 p.16
  22. ^ 22.0 22.1 鉄道ファン 通巻335號 沼田篤良『」オリエント急行」のプロジェクトを完遂して』 p.77
  23. ^ 鉄道ファン 通巻332號 曽我祐行『」オリエント急行」がパリを発車するまで』 p.86
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  27. ^ フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 p.132
  28. ^ フジテレビ出版『これがオリエント急行だ』 pp.132-133
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參考文獻

書籍

雑誌記事

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  • 週刊TVガイド (東京ニュース通信社).  已忽略文本「和書」 (幫助); 缺少或|title=為空 (幫助) 各號